あの言葉は今じゃなくても

昨日、いつものように仕事をして、いつものように用事をこなして帰宅して、音楽をかけて、鼻歌を歌いながら一人用のお鍋の用意をしていたら、ふと

《生きててよかったな》

って思ったの。

なんでかは分からないんだけど。

しんどかった時に気にかけてくれた人たちの顔が浮かんできて、改めて《ありがとう》っていう気持ちを胸に置いたまま、一献。

《ありがとう》

その言葉の余韻の中で、思い出したことがあって。

自分の気持ちじゃない言葉を紡ぐ、優しい表情を崩さない姉の声。

「主はこんなこと言ってるよ––」

「主の教えではね––」

「大丈夫。主が守ってくれる」

それから今度は、

知人の、少し震えた声も思い出した。

「それでも感謝しなさいって言われるの。」

「愛が足りないって言われるの。」

「こんなに頑張ってるのに。」

愛や感謝を盾にされて、身動きが取れなくなっていた人のこと。

愛とか感謝って、きれいな言葉。

優しく包むような言葉。

それらは、触れる場所やタイミングによっては、鋭く痛みを与えることもあるんだと思う。

それはきっと、愛や感謝だけじゃなくて。

「自分を大切にしよう」とか、

「自己肯定感を上げよう」とか、

「前向きに行動しよう」とか。

世の中で“正しい”とされている言動は、どれも本来は、人を助けるためのもののはずなのに、縁遠いものに感じてしまう。

感謝なんてできない日。

愛なんて言葉に近づけない日。

自分のことを大事にできない日。

そういう日も、ある。

怒りとか、悲しみとか、悔しさの中にいる時って、そんな言葉を受け取る余裕なんて、残っていなかったりする。

ただ、負のエネルギーって、ずっと続くわけじゃなくて。

同じ力で、ずっと力み続けることもできなくて、

どこかのタイミングで、ふっと緊張がほどける瞬間がある。

「むしろ、自分、人間らしくてええやん」

とか、

「あっ、今、違うこと考えてた」

とか。

そんなふうに、一瞬だけ力が抜ける時がある。

世の中の“正しい”とされている言葉や行動って、

たぶん、そうやって緊張が自然と解けたところから、少しずつ、自分のものになっていくんじゃないかなって思う。

(そもそも、“正しさ”って、誰のものなんだろうとも思うけど)

だから、無理に近づこうとしなくてもいいのかもしれない。

ちなみに私は、「自己肯定感が低くて、ネガティブで、何が悪いの?」って、半分開き直っているところもある。

生きやすくなる言葉って、目指して辿り着くものじゃなくて、ある日ふと、隣に座ってることに気づくものなのかなって思った晩酌でした。

※画像は、いつかの鍋の具材を買った帰り道、「落としましたよ」と拾ってくれたもの

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