触られた時にどうする?「受け入れる」「のける」「取りに行く」?

自分の体というのは、肉体的には「血肉」で構成されているものですが、実際にはそれだけにとどまらず、もっと広がりを持っています。この広がりが、肉体を超えた空間的な体積であり、それは「ペリパーソナルスペース」という言葉で表現されます。これは、生理学的な事実に基づくもので、私たちの体の一部として捉えられています。

肉体的には、確かに私たちの体は「体」でしかありません。しかし、よく観察すると、例えば手に持った鉛筆の芯をコントロールしているのも、実際には自分の脳です。身体は、ただの「血肉」にとどまらず、私たちの意識や脳の働きと深くつながっていることがわかります。

たとえば、成人になると身長はあまり伸びませんが、大きなシェフ帽をかぶってみるとどうでしょう? その帽子は、たとえ自分の一部ではなくても、私たちはそれを自分の体の一部として扱い、天井に気を使ったりすることがあるかもしれません。

これも、ペリパーソナルスペースの一例です。説明がうまくできていないかもしれませんが、身体って血肉だけじゃないんだよーん。が少しでも伝われば嬉しいです。

 

さて、ペリパーソナルスペースの考え方があると、(血肉に触れる前にすでに)「実際に皮膚と皮膚は触れ合ってないかもしれないけど、触れ合いがすでに発生している」前段階があるということが、科学的にもわかります。私たちは視覚や聴覚、触覚など、あらゆる感覚を通じて、空間に対する危険や安全を察知し、それに反応します。

たとえば、近づいてくる誰かの手に対して、私たちの体は無意識のうちに集中力を高め、その手が自分にとって「受け入れるべきか」「避けるべきか」「逆に手を伸ばして取りに行くべきか」を判断します。

そして、血肉に触られる前からこのような選択肢が自分の中で準備されているのです。

私たちはその瞬間、意識的に「受け入れる」「のける」「取りに行く」のいずれかを選ぶことができるのです。

 

 

これらの選択は、社会経験や文化的背景、あるいはその時の感情(不快感や安心感など)によって一人ひとり異なります。自分の体と他者との関係も、まさにこうした細かな選択の積み重ねによって成り立っています。

 

「触れ合い」という行動に対して、個人的見解を述べてみました。

もし、誰かの手を「受け入れるなら」どんな優しさや丁寧さ、愛情が込められていると嬉しいのでしょうか。

個人的には、あまりにも強い感情が込められた手は、逆に自分を侵食されているような感じがして好ましくありません。でも、全く無機質な手も寂しさを感じてしまいます。私が理想とするのは、念を込めすぎず、ただただ優しさと温かさが伝わるような手です。

もし、誰かの手を「のけるなら」、その時に「今は触れないでほしい」と伝えるのは、勇気がいるかもしれません。相手を傷つけるのではないかと躊躇することもあるでしょう。

触れられる前から、「なんとなく違う」と感じていることが多いものです。その違和感を感じ取ることもできますし、触れられている最中に変化を感じたなら、「STOP」と言う勇気を持つことが大切です。それは自分のためでもあり、相手のためにもなります。

そして、もし「手を伸ばして取りに行くなら」相手にもまたペリパーソナルスペースがあることを忘れてはいけません。相手が手を差し伸べてくれたからと言って、必ずしも相手も手を伸ばされることを望んでいるわけではありません。

結局、私たち自身のペリパーソナルスペースと相手のそれが交わるとき、人間関係は複雑に絡み合っていくのです。

このように、肉体だけではなく、私たちの体は思っている以上に広がり、私たちの意識と深くつながっていることが生理学的にも明らかになっています。それが「ペリパーソナルスペース」というものなのです。

この話が、少しでもみなさんの感覚や日常に役立つものとなれば嬉しいです。

自分の体と向き合い、他者との距離感を大切にしながら、優しさと温かさをもって接していけるといいですね。あ、まずは、自分がね。ゆる。

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